表現活動における「抵抗」について
ペンや鉛筆を持たずしても、こうやって言葉と文章を綴れるようになった。
絵だって、鉛筆も筆も持たずに描ける。
便利な世界だ。
でも、私が絵を描く時や文字を書く時、無意識で一番の楽しみにしているのは私の脳から作品になるまでの「抵抗」かもしれないと思う。
絵を描くときは、鉛筆を削り、手に持ち、紙を広げ、紙の細やかなザラザラに鉛筆の芯が削れて線を引くことが出来る。
幾重にも「抵抗」があるのだ。
表現におけるこの「抵抗」とは面倒な類のものか。
私は、これは結構あった方がいいんじゃないかと最近思う。
紙を広げて、鉛筆を削ってまで書くまでのことじゃないことを、Twitterには書いてないか?
表現しやすさは、一種の罠。
私たちの浅はかさが露呈する。
表現しにくさは、一種のスクリーニング。
私たちの余計なものを削ぎ落とす。
今夜、私はお酒を飲んで、一切の理性を削ぎ落として、この文を書いてる。
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